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修業学習の終焉を望んでいるのは誰か

オリジナルURL: https://www.lapprenti.com/articles/article_auto.asp?news_id=1341&one=1

更新日: 2018/05/16

修業生、この言葉は職人仕事を習う人にとって意味をもっている。

修業学習は中世より存在したが、そこでは職人の同業組合が修業生、同業者、親方を統制し、治めていた。

これらの同業組合はわれわれの専門職の連合体の先駆であるが、それが秩序を乱すと判断されると、改革のときに解体されるだろう。修業学習の制度的形態は第一次世界大戦の廃墟から立ち上がるときに再現されたにすぎないが、本質的には職人仕事と工業にかかわる手工的技能的な養成にかかわっている。

《パッとしない資格》の養成というイメージが心の中に刻まれている。

以来、この言葉はエリート層に恐怖を与えている。エリートたちはこの言葉によって彼らの階層の偏見を継承してきていて、恥ずべき教育のこの言葉は、卑俗な仕事に運命づけられた人々の子どもに影響を与えている。

タブーの言葉
ジュール・フェリーによって責任をおった遺産相続人たち (訳注: 経済的社会的文化的富裕な社会階層) は、労働者の子どもたちを工場に導くことから逃れられない社会的決定論に対して、学校の教師達も非常に早くから戦ってきた。あまり意欲の湧かない生徒たちにたいして、教師たちは才能を傾注して学ぶことの魅力を訴えてきた。しかし、時代の風潮と、効き目のあるやり方である恐怖と、勉強しないものの意欲にもっとも広く使われている脅しで、《おまえは修業を終えたくないのか? いやか? では授業を理解しろ!》

《廃車場 (訳注: 将来性の見通せない) への道》が辿られている。学校は学習と屈辱とを常に組み合わせながら、偏見を実態のあるものにし、同業組合は自慢の種であるが数世紀の歴史に及ぶ苦しみを味わって教会組織のようになったのである。

その人たちに変革を望むことは困難であるが、機会の不平等さへの戦いのなかにあって、学校の教師たちも諸階層に対して知識や社会的成功の高い地位に登ることに極めて慎重であった。

議論の余地なく尊重することを求める成功、しかしそれが国民教育 (l’Education Nationale) にたいして批判に直面して少し横柄な保証をあたえ、必然的に反動的となり、新しい誤りを犯すこともあり得る。

1978年にいくつかの洞察力のある精神をもとに、修業学習は高等教育に仲間入りを果たした。それ以降CAP (職業能力証書) から工学免状までにすべての免状は、修業学習において手の届くものになっている。

しかし、《修業学習、廃車場への道》の考え方は、心の中に今なお息づいている。その効果を少しずつ拡散させるためには一世代を待たなければならないだろう。2017年の調査によると修業学習はほぼ全員一致の圧倒的多数で賛成されている。
それは国民教育 (l’Education Nationale) が選んだ瞬間であるが、偏見が薄れゆくきっかけであったと思い出すだろう。それはもう一つの道を用意することによって、運命づけられた仕事の考え方を消し去るためである。

《修業学習》を忘れるための《職場体験》
《職場体験》に《修業学習》を加え、それに《修業生》を加えて、さらに廃車場への道を加える。これですべてが記述されている。

公式の印刷物でも単語が置き換えられている。大学の建物の破風には (修業学習の新しい部門が設けられている) が掲げられている: 職場体験の対極としての《修業生》は《職場研修生》になっている。
職場体験、響きの良い行事! 教育機関は立派な偏りのない表現で約束している。職場体験は高等教育の学生を対象としており、修業学習はCAPの学生を対象にしていると示唆することで嘆かわしい混乱を生み出している。

公共的精神から、今後、1つはエリート主義者ともう1つは民衆のためとの2つの修業学習の道が存在することになるだろう。

単一に代わって2つのモデル
将来2人の修業生が出会ったときに
《君は修業学習中なのか?》
《いいや、職場体験中だ。で君は?》

混乱を加えることになるが、促進しようというモデルに公的権力は役に立たない。もし《職場体験》が実習生の養成で企業と学校とに分割される形態であるとしても、それはCAP, BEPと他の職業Bacの職業養成を目指すために適切な表現である《修業学習》にとって代わることはできない。そして《修業学習》は企業内でBTS (上級技術免状)、修士あるいは工学免状を目指すものである。
養成の過ちを思い出させるのであるが、《修業生》に代替する意味での《職人仕事の学生》はその養成には総額数百万ユーロ (1ユーロ=約130円) に達するものであったが、かつて誰も用いたことのない表現である。
支払われた努力とお金はまったく無駄であったが、修業学習は生き残った。歴史の教訓を無視するかのように、今や内閣の報告にみられる助言者たちは《修業学習》を《職場体験》に好都合なように解体しようとしている。無駄な期待である。恐らくは並置された2つのモデル、一方は頂上に至りもう一方は廃車場への2つの道を見ることになるであろう。

《何もせずに語らせておけ》 (A. Allais)
結局、国民教育 (Education Nationale) は巧妙さに欠けている。

というのは、単純に《修業学習: 優秀な人材の養成》の理念を普及させれば十分であろう。修業学習は今後もっとも高いレベルの免状にアクセスすることが可能な養成モデルであるがために、民衆のごく自然な熱狂で支持されている。
単独で進んでいける修業学習は、修業生の人数が2005年以来95%も増加したが高等教育の枠内で拡大している。現在修業生の半分近くがまだ意に介していないが、明らかに時代遅れの偏見である。
したがって、放任しておけば十分であって、3-4年のうちに修業学習が将来への廃車場への道であるとは誰も考えなくなるだろう。努力も余分な財政支出も必要とすることなしに、偏見はそれ自体で消滅していくのであろう。《立ち代りやってくる研修生》という不快な単語は忘れられる。
しかし、残念なことだが、物事はすべての人に単純に現れることはない。

この点について、名高いCaptain Capは疑いぶかそうにパイプを見つめながら《風という言葉が髪を乱すことはない》と穏やかに答えた。さて最後の言葉だ。聖なるCaptain Cap! だ。