働くことを学ぶ - 修業学習と職業陶冶

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2. スイスが実現している高等教育

更新日: 2023/08/31

2. スイスが実現している高等教育

 

2.1. なぜスイスか-働くことと生活を楽しむこと

 スイスは観光資源を除いて資源に乏しい国であり、スイス人はヨーロッパの田舎者と呼ばれることもあり、植民地は持たなかったが植民地の立場ではなく宗主国の側からの商売で利を得た国ともいわれています。しかし、2021年までの自然科学分野のノーベル賞受賞者累積者数(社会実情データ図録による)は日本についで世界6位であり、WorldSkills(従来の技能オリンピック)でも奮闘している国が実現しようとしている高等教育の一端を紹介しましょう。

 ヨーロッパの職業教育を理解するためにはその背後にある国の実情、文化を理解することが重要です。わが国の労働観や職業観から類推するのでのはでなく、他の国あるいは民族の文化や習慣の違いを知ることは大切です。「働くことと人生を楽しむ」ことについての国民や民族の根本的な行動様式はかなり違いますので、それを理解しておくことは欠かせません。この話題は「4. 高等職業陶冶は教えられるか」でさらに扱います。その前に私にとって印象的な2つの事例があります。

 その1つは日本人グループがヨーロッパへ視察旅行するときに世話役をする機会がありました。スペインで訪問先を移動しているときのバスの中でガイドがこんな話をしました。「昔、人々は天上の楽園で楽しく暮らしていました。中に悪いことをする人も出てきて、その人は地上に追放されましたが、その罰として働くことが課せられました。だから日本人は楽園でよほど悪いことをしたに違いありません」。これは日本経済が急成長して猛烈社員という言葉が生まれた時代のスペイン人の日本人観です。どうもスペイン人のなかには働くことを労苦と考えている人もいるようです。

 もう1つはモントリオールに10ヵ月滞在していたときの経験です。滞在先は英語系のコンコルディア大学で仕事はもっぱら英語でした。着任したときは街路の名前はMountain Streetでしたが離れる時はRue de Montagneとフランス語化が進められていた時期です。私は仕事のときは英語系で、遊ぶときはもっぱらフランス語系の人やケベック人とでした。英語系の人はフランス語系の人を怠け者だと評していましたし、フランス語系の人は英語系の人は頭が固いと評していました。モントリオールには英語系のコンコルディア大学とフランス語系のモントリオール大学がありますが、両方の文化圏を行き来していた私にとっては、そうでもないよと双方に言いたいところでしたが、人はステレオタイプで他人を解釈しがちなものです。

 広大な土地で原住民を追い払っての資源の開発にあたってきて教会と大学が心のよりどころであったアメリカ、大航海時代の三角貿易(奴隷売買)で富を成し広大な殖民地を統治してきたイギリス、植民地統治と庶民の困窮の上に宮廷文化を築いたフランスよりも、資源の乏しい山岳地帯で田舎者と呼ばれながらも、いち早く21世紀の高等教育の改革の実例を示したスイスに親近感を覚えます。スイスは教育者ヨハン・ハインリッヒ・ペスタロッチを輩出した国であり、その思想や実践はわが国でもよく研究されています。森川直著「近代教育学の成立」(東信堂)で紹介されているとうや;陶冶という概念は、私の教育的立場の基盤となっていますし、フランス語で現地の状況を知ることができるのでスイスを選びました。スイスの教育研究者とは国際集会で言葉を交わしていますが、訪れる機会を失いました。しかし、YouTube上には数多くの映像がありますし、パリ大学のフランソワ・ギャルソン(François Garçon)教授の著書も数多くありますから、スイスの職業陶冶の考え方が参考になるのではないかと考えています。

 日本人は、働くことと日常生活の中に美と歓びを見出すことのできる文化を持っています。文化遺産を守る技術、次世代にも継承したい家具の製造技術、庶民の日常生活に美を求める調度品、俳句や絵手紙、盆栽など数え上げればきりがありません。

 私はUNESCOの活動に参加しておりましたので、アジア太平洋地域に日本の信託基金でイギリスとインドの専門家各一名と一緒の移動チームの責任者として、韓国、フィリピン、マレーシャ、スリランカに各5週間滞在して現地の研修にかかわっていました。そのほかにアジア太平洋地域の各国から2名を日本に招致してセミナーを開催するときの責任者も務めていましたので、それぞれの国の考え方の違いを実感していました。

 職業陶冶(とうや)という用語は、国際的視野でみたときドイツ語のBerufsbildungやフランス語(スイス)のformation professionnelleに対応するものであると考えています。制度としてはわが国の見習制度の系統がそれに相当します。英語ではapprenticeshipでしょうが、私が大学の助手になって初めて研究したのがイギリスの技術教育でしたので、第一次産業革命のときに年少者が過酷な労働を強いられていたというイメージがあります。わが国で陶冶という用語は教育研究者のあいだでは使われているのですが、あまり一般的ではありません。当面は「職業を通じて人としての成長を図る」という考え方であると理解しておいて下さい。

2.2. 後期中等教育(高校レベル)の職業教育

 わが国の高校とスイスの後期中等教育学校の生徒数の割合を比較してみます。わが国の学校基本調査(2020)によりますと本科の学科別生徒数は,普通科(2,357千人)が最も多く73.1%,次いで工業科(245千人)7.6 %、商業科(190千人)5.9 %、総合学科(173千人)5.4 %等です。その比率は図2-1に示すような状況になっています。

 一方、スイスの後期中等教育は図2-2のようになっていて、初期職業教育に進む若者が60%近くになっています。旋盤工、林業、農業、理容師など従来の中等教育Ⅱ段階(わが国の高校段階)で行き止まりとなっていた職業教育に、21世紀に入って高等教育の改革にともなって高等教育への進学資格の職業マチュリテ(maturité professionnel)の道を設けて高等職業陶冶へと進むことができる若者の夢を実現しました。事実、YouTubeで閲覧できるスイス公共放送RTSの番組「地球を一瞥して-スイスの奇跡(Un coup d'oeil sur la planète - Le miracle suisse)」で旋盤を操作している若者に将来の夢をたずねたところ「マチュリテを取得することです」と答えているシーンが印象的です。

図2-1 高校学科別生徒数割合(学校基本調査2020)
図2-2 スイス中等教育Ⅱ段階の課程別生徒数割合

図2-2 スイス中等教育Ⅱ段階の課程別生徒数割合
(出所:Statistique de l’education 2022, Suisse)

 

2.3. Day Release方式の学習形態

 図2-2に示すように60%近くの若者が初期職業陶冶の道に進み、12%がマチュリテ(成熟証書)すなわち高等教育進学資格コースに進んでいます。このように職業陶冶にも高等教育の道が開かれたのがスイスの教育改革の特徴です。この場合、実務に従事しながら週に1日(場合によって2日)を研修所に通うDay-release方式であり、YouTubeで確認できる限り研修先の職場でインターネットを利用しての学習も進められています。この期間は職種によって異なりますが2~4年であり、雇用されているので給与が支給されていますが、その額は日本円で初年次で7-8万円、4年次では16-17万円程度ですが、これも職種と州によって異なります。

 ここで追及している職業陶冶は、従来の徒弟制度にみられた主従関係や先輩後輩関係よりもYouTubeやインターネットの発達によって年齢や経験年数に関係のない情報交流であるともいえます。むしろ今後は世界的規模での世代間の情報交流が可能になるといえるでしょう。

 スイスの教育制度の全体的組織図は図2-3のようになっていますが、中等教育Ⅱの段階で伝統高校、一般文化学校、初期職業陶冶の系列に進学し、高等教育への進学資格である普通マチュリテ(成熟証書)、専門マチュリテ、職業マチュリテを取得することを目指します。これはわが国の高校段階に相当していますが、この段階で職業に従事している者が多いことを示しています。しかし中学校に相当する中等教育Ⅰ段階を修了する時点や中等教育Ⅱ段階で生涯の職業を確定することは困難ですので、中等教育Ⅰ段階とⅡ段階を修了して高等教育に進む段階まで進路変更措置と補習職業陶冶のコースが用意されています。この両者の人数を合わせると約1割の若者が転向コースを利用することが予定されています。

 このマチュリテの資格認定は、フランスのバッカロレアの資格認定とも類似していて、基本的には中等教育Ⅱ段階の教員が実施します。フランスのバッカロレア試験に立ち会ったことがありますが、筆記試験は長いものでは3-4時間かかります。教えている教員が他の学校の教員と一緒になって全国共通試験を自校で実施し、その解答を採点し、評価して、試験本部に送って最終的評価となります。また、スイスの実習科目の実技試験では、トラクターの実物の前で1人の受験者に対して2人の試験官が部品の名称や用途を質問したり、運転法をチェックしたりする場面があります。このように教師は教えることよりもその職業能力を評価することに力を入れていて、学習成果についての公正な評価能力が求められている印象です。

 スイスでは先にも紹介したように中等教育Ⅱ段階の生徒の63%が初期職業陶冶の分野に進むのですが、これは従来の徒弟制度を継承して改革したものです。高等教育に進学することのできる職業マチュリテ(成熟証書)の道を開くと共に、その教育内容と方法を情報社会に適用できるようにする努力が重ねられてきています。図2-3に示しているのはつぎの5巻のシリーズではフランス語(英語の自動生成字幕付き)ではありますが、5人の修業生、農業(女性)、林業(男性)、煙煤除去士(女性)、美容師(女性)、社会福祉士(男性)の生活を1年間密着取材して記録したものです(各プログラムはスイス公共放送RTSで2019年に放映されたもので約43分)。

  1. Les apprentis (1/5):Les défis d’une vocation(天職の挑戦)
  2. Les apprentis (2/5) : Sueur et labeur(汗と労苦)
  3. Les apprentis (3/5) : Les risques de métier(仕事の危険)
  4. Les apprentis (4/5) : Du coeur à l’ouvrage(感性の心から作業へ)
  5. Les apprentis (5/5) : A la croisée des chemins(進路の交差点で)


 映像は上記のタイトルをYouTubeに入力すると視聴することができます。修業生の日常生活、職場実習の状況、理論学習などの集合学習、実技能力の評価風景、コンクールへの出場など、後期中等教育レベルのDay-release方式を理解するのに適しています。

図2-3 スイスの後期中等教育段階と高等教育段階の組織図
図2-3 スイスの後期中等教育段階と高等教育段階の組織図
(出所:Swiss Education System)

 

2.4. 高等教育段階の職業専門陶冶(VPET)とSandwich方式

 図2-4に示しているように、大学部門の資格取得者は、2005年まではLicenceやDiplômeの資格でしたが、これをBachelorとMasterの英語表記にして2015年までに完全に切り替えました。2020年で欧州高等教育圏に参加しているのは49か国とヨーロッパ委員会ですが、この圏内でのBachelorとMasterの職業資格としての可読性と雇用可能性が保証されたのです。

 

図2-4 大学部門の資格取得者の人数
図2-4 大学部門の資格取得者の人数
出所: Statistique de l'education 2022, Suisse

 

 非大学型高等教育としてローザンヌ・ホテル業学校( EHL École Hôtelière de Lausanne)は、国際的な職業陶冶を目指すSandwich方式として注目されます。スイス公共放送RTSがYouTubeで提供しているのはつぎの5つの映像(自動生成の字幕付きで、英語、日本語を選択可)です。放映時間はいずれも47分台であり、最初の放映は2019年となっています。

  1. A l’école hôtelière (1/5) : Les débuts(デビュー)
  2. A l’école hôtelière (2/5) : Le stress du stage(研修のストレス)
  3. A l’école hôtelière (3/5) : Pression, travail, succès(圧迫、労働、成功)
  4. A l’école hôtelière (4/5) : Fin de semestre(学期の終わり)
  5. A l’école hôtelière (5/5) : Le stage pratique(実践研修 )
    (このシリーズも表題をYouTubeに入力して検索できます)

 

 この学校は従来のものとは大きく異なっています。従来の教育のように教室や実習室があって教員が授業計画を立てて、それに従って学生が受講するというスタイルではありません。実際の高級ホテルを模した建物で、設備も一流ホテル並みです。準備学年で最初にやることは、身体に見合う制服あるいは仕事着、厨房において安全のために履く仕事靴が用意されているのでそれらを調整することです。接客業でもあるので、スカートの長さ、ネクタイの締め方などが指示されます。一流ホテルを模したパーティー用の広い部屋、実物通りの受付やカフェ、食事は一流レストラン並みの接客の挙動が評価対象になっています。居室は2人一部屋で洗面所やトイレの清掃やベッドメーキングも評価されます。教員と明確に認識される職員の映像はあまりなく、日常の挙動が指導内容です。さらに新入生歓迎や免状授与の祝賀パーティーもすべて学生が企画し実施しています。収録されているのは全体で5名ですが、そのうちの3名(18歳、19歳、21歳)は入学したばかりの準備課程の受講生であり、残りの2名(21歳、27歳)は修了を間近に控えて面接試験やさまざまな実技の評価を受けています。取得する資格はBachelorとMasterです。

 この学校に入学時に強調されているモットーは

  • Excellence(卓越性)
  • Savoir-faire(手腕、為すことを学ぶ)
  • Savoir-être(人として生きることを学ぶ)

の3つです。学生は2,800名でその大部分はスイス人ですが、国際学校を目指していて110ヵ国からの留学生を受け入れています。第3番目のモットーであるSavoir-êtreを英語ではSoft skillsと訳していることがありますが、むしろLearning to be の意味です。 また、入学の集会の中で責任者と思われる人が英語で挨拶していて、そのなかで « work, work and …… work » と述べています。それは強制されたものではなく、学校での学習態度を求めているのです。また、修業生に対して指導者が自分と対等であることを強調したり、修業生に敬語を使ったりしているのが印象的で、サービス業としての態度を訓練しているとも解釈できます。

 また、入学の集会の中で責任者と思われる人が英語で挨拶していて、そのなかで « work, work and …… work » と述べています。それは強制されたものではなく、学校での学習態度を求めているのです。また、修業生に対して指導者が自分と対等であることを強調したり、修業生に敬語を使ったりしているのが印象的で、サービス業としての態度を訓練しているとも解釈できます。

 なお、スイスの最新の教育政策については、つぎの資料が大変参考になります。

  • ‘Perspectives de la formation Scénarios 2022-2031 pour le système de formation’
    「陶冶の展望 陶冶システムのためのシナリオ2022-2031」(英語訳もあり毎年更新されています)
  • スイスの高等教育の改革の詳細についてはNPO学習開発研究所のホームページの「働くことを学ぶ」>諸外国の制度>スイスの陶冶の道 (https://oj-learning.org/country/3)を参照して下さい。
  • スイスは近年英語による情報提供に力を入れています。
    Vocational and Professional Education and Training in Switzerland-Fact and Figures 2022は英語で総括的な情報を提供していて、この資料ではVPETを使っています。