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4. 職業専門陶冶(VPET)は学ぶことで進展する

更新日: 2023/09/15

4. 職業専門陶冶(VPET)は学ぶことで進展する

 

4.1. 教えることで始まった教育の近代化

 わが国の近代教育は、「教える」ことを出発点として始まりました。それは欧米列強に開国を迫られていた明治維新の情勢のもとで、江戸期の庶民の寺子屋で用いられた「やる気」が湧くまで待つというやり方では対応できないと考えられたからです。明治5年(1872)の学制、明治19年(1886)の学校令などによって政府主導の近代学校へと改革されましたが、そのときに教えることが基盤でした。さらに社会のあらゆる面での環境の整備も、欧米諸国に学ぶ必要があったので、それを推進するためには欧米を模範として「教える」ことを前提とした文教政策が政府によって推し進められました。

 第二次世界大戦後においても、戦争終結とともにアメリカ教育使節団が昭和21年(1946)と昭和25年(1950)に二度にわたって来日し、第一次と第二次の使節団報告書が提出されました。軍国主義の教育から脱却するためにアメリカの民主主義を教えることが重視されましたが、私は小学校時代に教科書のあちらこちらを自分で墨塗りにしたことを覚えています。すなわち、明治の教育改革も、戦後の教育改革もいずれも欧米の文明や文化を学び教えることが重視されました。

 その結果、日本の教育は欧米の教育と同じような構造で進められていると考えがちですが、教育は社会的、歴史的、地域的文脈の中に深く埋め込まれた営みですので、国によって大きな違いがあり、模範を欧米に求めることはできません。日本社会に適した制度と方法を探究する必要があるのです。

 私自身はこれまでに欧米や東南アジアのかなりの数の国の学校や大学を訪問した経験があり、国際集会や知人と話し合ったことなどを反芻しながら、日本独自の高等教育レベルの職業専門陶冶の制度を構想することに挑戦してみました。日本の現在の教育制度は開発途上国にとってあまり参考になりません。明治期の学制(1872年)以来、150年をかけて整備してきた高価な施設設備や適切なレベルの教員で充実していますが、発展途上国がそこまで整備するには長い年月が必要であると考えられるからです。開発途上国でも近年の情報通信技術を活用することによって、効果的で国民にとって財政負担の少ない教育制度を実現することを目指しているのです。

 高等教育段階において教えることを前提とする教育の考え方は、コロナ禍によってその特性が明らかになりました。多くの国でコロナ禍は、教育における情報通信技術を活用する好機となりました。しかしわが国ではコロナ禍で対面授業ができなくなってズーム(ZOOM)などの遠隔授業のできるアプリを利用して授業は続けられましたが、コロナ禍が下火になるに従ってかなりの割合の授業は対面方式に戻りました。現在の教育体制では遠隔授業はやはり次善の解決策と考えられているようです。

 

4.2. ヨーロッパはどのように対応したか

 コロナが始まった当初、ヨーロッパはどのように対処しているだろうかと関心があったので、すぐにOxford大学のホームページにアクセスしてみました。ところがホームページの最初の画面でコロナ・ウィルスについての科学的な説明がしてあり、研究を進めるための寄付集めのキャンペーンをしていました。授業について何か対応策がとられているのかどうか、いろいろなページを調べてみたのですが、私が見つけたのは1科目で授業の開始時期を秋学期に遅らせることが掲示してあり、もう1科目は授業がとりやめになったことが掲示されていまいした。事実、私の友人のお孫さんがイギリスの大学の修士課程で学んでいたのですが、日本に帰国していてイギリスに再入国することができなったのですが、すべてオンラインで学習できるので学習には全く支障はないとのことでした。

 コンピュータが教育に導入されようとしていた初期の頃、アメリカではこれをコンピュータ支援指導CAI(Computer AssistedあるいはAided Instruction)と呼んでいて、日本もこの用語を用いていました。それに対してイギリスではコンピュータ支援学習CAL(Computer Assisted Learning)と呼んで学習の視点から開発が進められていました。

 今世紀に入ってから、これまで軽視されてきた社会階層の底辺の人々や難民や移民の人々も、情報社会では高等教育レベルの有能な人財として活躍することが期待されています。Bologna processでその事態に対処するために、欧州高等教育圏での新しい資格のBachelorやMasterの資格が創設され、雇用可能性(employability)を1つの指標にしていることがこのことを物語っています。現在の集合対面授業を中心とする高等教育の体制に対して、情報社会に相応しい高等教育の普遍化を実現するための制度、内容、方法の改革が望まれているのです。

 

4.3. 自ら学ぶことを前提とした高等教育の試み

 高等教育レベルの学習をする環境を、無償あるいは低額で提供することが期待されています。もちろん、これまでにも大学の夜間コースや通信教育コースはあります。しかしそれらはいずれも現行の大学の次善の策であって、内容も方法も昼間全日制の授業を模範としているので、常に教授者を前提としていて多様な職業専門陶冶のニーズに対応するものではありません。

 そこで私が実地に、あるいはネット上でホームページを訪れたり経験したりした斬新ないくつかの海外の事例のごく一部を紹介します。

(a) 民衆大学(University of the People,)
アメリカでは事業家シャイ・レシェフ( Shai Reshef)が財政支援して授業料無料の大学で2009年にスタートしました。著名な大学教授のボランティア参加の協力を得て、教授陣は充実しています。しかし、これがアメリカの教育がもたらしている階層格差を改善するかどうかは、今後、時間をかけて見守らなければならないでしょう。その理由として教育内容が現行の大学の授業内容を遠隔授業方式にしたものになっているからです。

(b) フランスの学校‘42’プロジェクト
2013年に設立されたフランスの学校‘42’プロジェクト(42はアメリカの野球の大リーガーで初めて黒人が殿堂入りをしたジャッキー・ロビンソン選手の背番号。映画にもなった)
日本でもすでに2019年に開講している’学校42東京’を紹介しておきます。これはフランスにおいて情報技術者とくにプログラマーが不足していた時期に、政府の対応が遅いことに痺れを切らして富豪のニール・ザビエル(Niel Xavier)が中心となってニコラ・サディラック(Nicolas Sadirac)、クアム・ヤムニャン(Kwame Yamgnane)とフローリアン・ビュッシェ(Florian Bucher)によって2013年に設立されました。教師は全くいなくて、選考から出題、学習管理はすべてコンピュータによって行われます。パリでは貧困層の若者に大変な人気で、出願には行列をなしました。

(c) スウェーデンのネット大学(Net University)
現行の大学教育の内容を普遍化するために、スウェーデンは柔軟学習(flexible learning)を目指して、既存の国立大学内にネット大学の学習内容を情報発信するサテライトを設けて、2002年から遠隔学習を開始しましたが2009年に閉鎖しました。この大学の関係者には3年連続して面談し、ストックホルム大学教育学部も訪れましたが、最初は大変意気軒高でしたが、しだいにトーンが低くなりました。情報の発信源は大学の中に一教室ほどのセンターが設けられていて、大学の教育関係者が授業を担当したのです。庶民の学習ニーズに対応していないことが閉鎖の理由です。情報技術を駆使して教えようとしても、庶民の学習ニーズに対応していなければ長続きしないということが教訓でした。

 この種の情報通信技術を活用した高等教育の試みは数多くあり、たとえばカナダでは北部の過疎地の住民のための国語や数学などの学習指導、オーストラリアでは砂漠で働く労働者のための遠隔研修などを見聞しました。しかし、それらがすべて成功しているわけではありません。現地のニーズにしっかり根差したものだけが成功していると言えるでしょう。

 

4.4. わが国の遠隔教育

サイバー大学
 この大学は2007年にインターネットを全面的に活用して、スクーリングを必要としない大学としてスタートしました。設立当初はエジプト学者の吉村作治教授を学長に迎えて、IT総合学部IT総合学科及び世界遺産学部世界遺産学科として開設しましたが、世界遺産学部が定員不足のために学生募集を2010年に停止して、2016年 4月からはIT総合学部IT総合学科ITコミュニケーション・プログラムを開設、2018年 4月からIT総合学部IT総合学科AIテクノロジー・プログラムを開設して再出発しています。この大学はスクーリングがなく、全ての学習がオンラインで行われるので授業料が国立大学並みであり、通常の大の高等教育機関としての大学の特徴があると考えられますので少し検討しておきましょう。

 表4-1に示しているように、サイバー大学の学費は国立大学の学費とほとんど同額であるといえるので情報通信技術を活用した結果、学費の面では私立大学でありながら国立大学の授業料に近くなっていると言えます。

表 4-1 サイバー大学と国立大学の学費の比較(単位:万円)
  受験料 入学金 学習管理システム料 授業料 卒業までの総額
年間 単位毎 総額
サイバー大学 1.0 10.0 1.2(楽器毎)
1.6(楽器毎)
2.1 260.4 293.8
国立大学 1.7 28.2 53.5 214.32

244.22

 フランスの学校42では授業料は無料で、学習成果(learning outcomes)で評価する方式を採用していますが、サイバー大学はわが国の従来の大学設置基準が基本となっています。対面授業を条件としていないので受講者には好都合であり、AIテクノロジー・プログラムに特化した職業能力を証明するものになっていて、これまでのわが国の大学設置基準の特例となっているものです。

 

4.5. 職業専門陶冶(VPET)の現代的意義

 わが国には従来から職人の親方と弟子とのあいだで成立していた見習い制度があります。これはまさしく「見て習う」という制度であり、生活の苦しい家庭での口減らしの意味合いもあって、商家への丁稚奉公は10歳ぐらいから、大工などの力仕事では12歳ぐらいから住み込みで見習いに出ていました。この場合、親方や旦那が積極的に系統的に教えるのではなく、日常生活も含めて仕事を見習うという制度でした。読書算の学習には手習い塾に通っていました。

 このような学習方式は、欧米社会でも徒弟制度として伝統的にとられていた教育方法です。イギリスの場合は第一次産業革命のときに炭鉱などでの石炭の搬出に年少者が労働力として使われるという悲惨な状況でしたが、当時の博愛主義と啓蒙主義の考え方から、職場から解放されて教育を受ける機会を設けるために徒弟制度税(apprenticeship tax)を徴収し実現したものです。多くの場合、週に1回あるいは特別の場合2回を職場から離れて学習するDay releaseの制度として残っています。これが近代教育の面からも取り上げられ、ドイツの職業専門陶冶(Belufsbildung)やスイスの職業専門陶冶(formation professionnelle)という概念で見直されています。わが国では日本教育実践学会元会長の故森川直の「近代教育学の成立」の著書のなかで「第四章 陶冶論的教育学の展開」としてドイツの教育哲学が紹介されています。森川の「陶冶」の説明を次のように再度紹介します。

漢語で陶器や鋳物をつくりあげるという意味である。転じて、人間のもって生まれた素質や能力を理想的な姿にまで形成することをいう。教育と厳密には区別しにくい概念であるが、やはり違いはある。教育が人間の成長に関する包括的な概念であるのに対して、陶冶は、知的・道徳的・美的・技術的諸能力を発展させることによって、よりよい人間を形成しようとすることである。[森川 直]

 陶冶という言葉は教育学研究者の間では使われていますが新しい造語ではなく、わが国では日本後紀‐延暦23年(804)に見られることや、本朝文粋(1060頃)に兼明親王の「風雨陶冶、寒暑廻薄」とあることが知られていますから、国際的な場でこの意味である職業専門陶冶(VPET)という単語を使えばよいでしょう。わが国独自の徒弟制度として職業専門陶冶(VPET)を用いて紹介すれば国際的に貢献することができます。とくにインターネットが普及して海外とも自由に交流できる時代になっているので、大学というキャンパスに閉じ込められた教育ではなく、同業者が国際的に交流できる環境での職業専門陶冶は、キャンパスにおける教育よりもむしろ広い意味をもっています。

 最近ではself-learningという用語も使用されるようになっています。ドイツ語系ではBildung(英語のcultureに相当)、スイス(フランス語系)で用いられているformation(formerは研修する、se formerは自己研修するで、両方の意味に使われている)などの言葉が対応するでしょう。スイスはformation professionnelle et spécialiséeを英語でVPET(Vocational and Professional Education and Training)と表記しています。したがって、われわれの研究では職業を通じて自己鍛錬するという意味で、現行の学校教育や大学教育とは一線を画した職業専門陶冶(VPET)を使いたいと思います。それは「教えられて学ぶ」ことではなく「先輩に学び、同輩と共に学び、後輩の学びを支援する」ことによって自分の能力を発展させるという意味での学びです。この場合、先輩、同輩、後輩は国内外の同業者も含めることがこれからのわが国の課題です。スポーツ界や音楽界、医学界では世界的な規模で学び合うことは当たり前になっています。

 

4.6. 高等職業専門陶冶では学習環境の設計が重要

 フランス語の学習をしていると、最近は人工知能(AI)に支援された矯正指導機能を利用したり、対話をしたりすることができるアプリが増えています。フランス語の文章を書いても自信がないときには、この機能を利用して作文し、それを修正して知人にメールを発信することもあります。このとき教えているのはAIであり、私が学んでいるのです。フランス語を生成しているのはコンピュータですので、AIは私の能力を越えています。しかも私が持っている語彙を次第に学習するでしょうから、私が使う単語の意味も理解して文章を修正してくれるようになるでしょう。身近にフランス人がいなくとも私の実力以上の能力をもったAIが助けてくれます。

 職場を職業専門陶冶の学習の場と位置付ければ同僚と一緒に学べるので、人間関係の形成の問題は解消されます。また、実習を職場で経験することをカリキュラムに組み込むことが可能です。教育機関に設置された機械や装置を操作しながら行う実験や実習では、その機械や装置はつねに時代遅れのものになりますから、職場での実習の方が時代の変化に即応しています。

 一定期間有給で職場を離れることを認める休暇制度が国際的に認められています。国際労働機関(ILO)は、労働者の権利としてこの制度を保障し、その付与に向けた政策の策定・運用を加盟各国に求める「有給教育休暇に関する条約」を1974年の第59回総会で採択しましたが、日本は50年を経過した現在でもこれを批准していません。

 職業専門陶冶(VPET)の考え方は、わが国の高等教育の授業料、なかでも大学の授業料が高額であることに対処するための方法を模索してきた結果として提起しているものです。現在、わが国は少子化が急速に進みつつあることが問題になっていますが、アンケート調査で調べた結果でも、子どもを産まない理由として「教育に金がかかり過ぎる」ということがこれまでにも数多く挙げられてきました。

 最初にも紹介したようにヨーロッパ大陸の大学の授業料は低額あるいは無償ですが、大学が都市部にあるのでその生活費の高騰に学生たちは悩まされています。たとえばパリ大学の学生は、生活防衛のために自分たちで商品にならない野菜を集荷して、学生同士で助け合う組合を結成して相互扶助していますが、教育の経済負担を軽減するためには授業料を低額化するだけでは解決できない問題を含んでいます。高等教育の普遍化にともなって、その理念、制度、内容、方法は、従来の高等教育の枠組では解決が困難で、抜本的な革新が求められています。